1441年(嘉吉1)10月、嘉吉の乱後、赤松氏旧領を本国に加えた但馬守護山名持豊(宗全)は播磨国守護として入国し、太田垣氏を守護代とした。なおも赤松氏一族の反撃が続く中、播磨・丹波国から但馬国への侵入路であるこの要衝の地に13年を費やして竹田城が築かれ、播磨平定の拠点となる。以後7代太田垣氏が続き、山名四天王(太田垣氏・八木城主八木氏・ 楽々前城、鶴ヶ峰城主垣屋氏・鶴城主田結庄氏)の一人として重きをなした。 1467年(応仁1)応仁の乱の際、2代太田垣景近が京都へ出陣した際、夜久野へ来襲した細川軍を景近の2男宗近が撃ち破ったという。 やがて山名四天王はそれぞれ力を持つようになり、1556年(弘治2)6代太田垣朝延は山名氏から離反して生野城を乗っ取り、生野銀山を領有している。そして7代太田垣輝延の時、毛利氏に与するようになった。 1575年(天正3)丹波国黒井城主赤井直正に一時竹田城を占拠されている。 1577年(天正5)羽柴秀吉軍の攻撃を受け、竹田城は落城、太田垣氏は没落した。秀吉は弟秀長を城代として城内の整備を命じている。 1580年(天正8)秀長は有子山城に入城し、代わって桑山重晴が城主となり、1585年(天正13)紀伊国和歌山城に移った重晴に代わって播磨国龍野城から赤松広秀(斎村政広)が入城した。 1600年(慶長5)関ヶ原合戦の際、広秀は西軍に属し、丹後国田辺城を攻めるが、関ヶ原敗北後、東軍として因幡国鳥取城を攻めていた因幡国鹿野城主亀井玆矩から来援要請を受け出陣し、功を挙げた。しかし城下に火を放った事で徳川家康の忌避に触れ、10月18日鳥取真教寺にて自刃して果てた。そして竹田城も廃城となった。 |