黒井城

黒井城(くろいじょう)
兵庫県丹波市春日町黒井
Mapion
登山口地図

--二の丸・本丸南石垣--
別名 保月城・保築城
交通 JR福知山線「黒井駅」から登山口まで徒歩15分。
築城年代 1335年(建武2)
築城者 赤松筑前守貞範
形式 山城
主な城主 赤井(荻野)直正
1335年(建武2)竹之下合戦の戦功により、春日部荘(春日町)を与えられた赤松筑前守貞範(則村の2男)が築いたとされる。以来約120年間5代にわたり赤松氏が続いたが、その後土豪荻野氏によって追われたと考えられる。
1532〜1554年(天文年間)荻野正元とその子と思われる秋清が城主であったが、1554年(天文23)1月、赤井時家の2男直正は年賀の席で秋清を刺殺して城主となる。この直正は、「甲陽軍艦」にも「名高き大将衆」13人の筆頭として記されており、悪右衛門と称して、八上城主波多野秀治と西丹波を二分する勢力を誇った。
1570年(元亀1)3月、直正と甥の赤井忠家は上洛して織田信長に服し、丹波奥三郡(氷上・天田・何鹿郡)の所領を安堵されるが、1571年(元亀2)11月、此隅山城主山名祐豊と一族の夜久野城主磯部豊直が突如氷上郡に侵攻し、山垣城を攻めた。直正は直ちに山垣城の救援に向かい、山名勢を敗走させると、逆に但馬国に侵攻し、竹田城を占拠した。これに対し祐豊は信長に助力を求めた事から後の信長の丹波侵攻を招く事となる。
1575年(天正3)明智光秀による第一次丹波攻めが行われ、波多野秀治をはじめとする国人衆の大半が服従する中、黒井城は攻められるが、その後かねてからの盟約通り秀治は突如寝返り、光秀の陣を急襲し、総崩れとなった光秀は亀山城へ敗走した。「赤井の呼び込み戦法」
1577年(天正5)10月、光秀による第二次丹波攻めが始まる。光秀は波多野方諸城を次々と攻略し、1578年(天正6)3月頃から八上城を包囲、更に八上城と黒井城との連携を断つ為、金山城を築いた。1579年(天正7)3月、直正は病没し、6月に八上城が落城すると、8月、黒井城は再び光秀に攻められ落城した。
丹波平定後、光秀は黒井城に重臣斉藤利三を置き、南麓に建つ興禅寺はこの斉藤氏時代の館跡ともされる。また後に徳川3代家光の乳母となる春日局はこの地で生まれたといわれる。
その後羽柴秀吉家臣の堀尾吉晴が入城する。小牧・長久手合戦に際し、直正の弟時直が徳川家康に呼応し、黒井城を一時占拠しているが、1585年(天正13)堀尾吉晴が近江国佐和山城に移ると、この黒井城は廃城になったようである。
猪口山山頂を本城とし、そこから延びる4つの尾根には千丈寺砦・龍ヶ鼻砦等が設けられており、約120ヘクタールに及ぶ猪口山系全体が城域となっている。本城には石垣等、遺構が良く残されている。
南麓に建つ興禅寺
下館跡
石踏の段跡 石踏の段跡に立つ赤門
東曲輪 東曲輪下石垣 三の丸
三の丸石垣�� 三の丸石垣�� 二の丸虎口
二の丸 二の丸・本丸間堀切 本丸虎口石段
本丸石垣�� 本丸石垣�� 本丸
本丸に立つ城址碑 本丸からの眺め 西曲輪

参考文献 「現地案内板」
                          「ひょうごの城 神戸新聞総合出版センター」
                     「大阪・兵庫の城郭 新人物往来社」
訪城回数 1
2011年9月