此隅山城

此隅山城(このすみやまじょう)
兵庫県豊岡市出石町宮内
Mapion
登山口地図
--北尾根堀切--
別名 此隅城・子盗山城
交通 各線「豊岡駅」からバス「鳥居」下車。登山口まで徒歩15分。
築城年代 1372年(応安5)頃
築城者 山名時義
形式 山城
主な城主 山名祐豊
但馬国守護山名氏代々の本城。山名氏は新田義重の子で上野国山名郷を本貫地とした山名義範を祖とし、山名政氏・時氏父子は新田義貞、次いで足利尊氏に従い、室町幕府の開設に活躍すると、5ヶ国の守護大名となる。そして時氏没後、全国66ヶ国の内、但馬・因幡・丹波・美作国等、一族で全国の6分の1に相当する11ヶ国を領した為、「六分一殿」といわれる程の勢力を誇った。此隅山城は1372年(応安5)頃、山名宗家を継いだ時氏の子時義により築かれたとされる。
1391年(明徳2)明徳の乱により山名氏は一時衰退するが、1433年(永享5)持豊(宗全)の頃、勢力は大きく回復し、1441年(嘉吉1)嘉吉の乱において播磨国守護赤松氏を城山城に攻め討つと、赤松氏旧領も本国に加え、山名氏最盛期を築いた。
持豊の後、山名氏は政豊・致豊・誠豊と続くが、山名氏家老格として重きをなした山名四天王(八木城主八木氏・ 楽々前城、鶴ヶ峰城主垣屋氏・鶴城主田結庄氏・竹田城主太田垣氏)はそれぞれ力を持ち、勢力拡大を目指して相争うようになり、山名氏は徐々に衰退していく。
1569年(永禄12)祐豊の時、織田信長の命を受けた羽柴秀吉に攻められ、此隅山城は落城した。祐豊は一旦は但馬を逃れるが、堺商人の助力により再び復帰し、1574年(天正2)南方に有子山城を築いて本拠を移したとされる。
標高140メートル此隅山に位置し、山頂の本丸から四方に延びる支尾根に多くの曲輪が設けられている。南西麓「御屋敷」と呼ばれる地は居館跡と推定され、その背後、南尾根先端には宗鏡寺砦が築かれている。
南西から城址遠望 南麓から城址遠望 本丸
本丸からの眺め 本丸北曲輪 西尾根曲輪
土塁 北尾根堀切�� 竪堀
北尾根堀切�� 北西尾根曲輪 麓から見る宗鏡寺砦跡

参考文献 「現地案内板」
                          「ひょうごの城 神戸新聞総合出版センター」
                     「大阪・兵庫の城郭 新人物往来社」
訪城回数 1
2014年10月