城山城

城山城(きのやまじょう)
兵庫県たつの市新宮町馬立
Mapion
登山口地図
--伝赤松屋敷に立つ赤松氏墓--
別名 亀山城・木山城
交通 JR姫新線「播磨新宮駅」から登山口まで徒歩30分。
地図の地点、山神社付近から登山道(大手)があります。
他にも複数ルートがあるようです。
築城年代 1352年(文和1)
築城者 赤松則祐
形式 山城
主な城主 赤松満祐
1352年(文和1)赤松則村(円心)の3男則祐が白旗城の外郭として築いたとされる。
1441年(嘉吉1)6月24日、赤松満祐が6代将軍足利義教を謀殺した嘉吉の乱の際、満祐は足利直冬の孫義尊を擁立し、書写坂本城に籠城すると、諸大名に挙兵を促したが、これに応じる者は無く、幕府追討軍は各地から播磨に侵攻してきた。これに満祐は坂本城は籠城に不向きとして当時弟義雅が城主であったこの城山城に入り、追討軍を迎えるが、従う者は少なかったとされる。追討軍の総攻撃開始前夜、満祐は再起を図るように命じて長男教康を城から逃れさせると、義雅は子千代丸を連れて追討軍に参加していた一族である赤松満政の陣に降伏し、千代丸を託した。この千代丸(後の時勝)の子が後に赤松家を再興する政則となる。そして9月10日、満祐と一族69人は城に火を放って自害、赤松家は滅亡した。
赤松家滅亡後、城山城は廃城のまま放置されたものと考えられるが、1538年(天文7)出雲から侵攻してきた尼子晴久が置塩城主赤松晴政を追い、一時ほぼ播磨全域を支配すると、城山城は播磨支配の本拠として利用された。しかし1540年(天文9)9月、尼子氏が撤退すると、城山城は再び廃城となった。
揖保川左岸、標高458メートルの亀山山上に位置し、北の祇園嶽、南の的場山まで全山城塞群として機能していたと考えられている。亀山山頂が本丸、その南ピークが二の丸と伝えられるが、ここから更に南下、伝赤松屋敷と呼ばれる削平地群が主要部であったとみられ、元々在った山岳寺院を利用したとも考えられる。また城山城築城以前、この地には古代山城が築かれていたといわれ、主に西側に築石や石垣が残されている。
北尾根に立つ供養碑 亀池 亀山北堀切��
亀山北堀切�� 亀山(伝本丸) 築石(古代山城遺構)
石垣(古代山城遺構) 石垣(古代山城遺構) 伝赤松屋敷
虎口 東曲輪
礎石が残る
南曲輪堀切
伝兵糧道 見張岩 東から城址遠望

参考文献 「現地案内板」
                          「ひょうごの城 神戸新聞総合出版センター」
                     「大阪・兵庫の城郭 新人物往来社」
訪城回数 1
2015年3月