海抜717メートルに位置し、大和国高取城・備中国松山城と共に日本三大山城の一つに数えられる。 1185年(文治1)源頼朝の重臣加藤次景廉が築いたとされるが、景廉が遠山荘の地頭職を与えられたのは1195年(建久6)の事であり、築城はそれ以後ともいわれる。景廉の子景朝は加藤の姓を遠山に改め、以後岩村城は遠山氏が1572年(元亀3)景任が病没するまで代々居城した。 1570年(元亀1)武田信玄は信濃国高遠城主秋山虎繁(信友)を将として東美濃に侵攻させ、岩村城を攻めた。遠山氏最後の城主となる景任は織田信長に援軍を求めると、明智光秀が入城し共に戦った。 1572年(元亀3)景任が病没すると信長は6男御坊丸(勝長)を養子として家督を相続させ、叔母で景任の妻おつやの方が女城主となった。景任の死を知った信玄は再び虎繁に岩村城を攻めさせ、虎繁とおつやの方との婚約と幼主の養育を条件に和議が成立し開城、御坊丸は人質として甲府に送られた。 1575年(天正3)5月、信長は長篠合戦で武田勝頼を破ると、続いて信忠に3万の兵で岩村城に向かわせた。信忠は北西、大将陣に本陣を置き昼夜を問わず岩村城を攻め立て、やがて信長も岩村に着陣すると、虎繁は城兵の助命を条件に開城した。しかし信長は信州を目指し帰郷する城兵3千を木の芽峠に待ち伏せしてすべて討ち、虎繁や叔母おつやの方も長良川原で磔刑に処した。岩村城には河尻秀隆が城将に置かれ、1582年(天正10)武田家滅亡後、秀隆が甲斐国に移ると森蘭丸が城主となるが、蘭丸は在城せず、留守役として各務兵庫が在城した。 同年本能寺の変で蘭丸が信長に殉じ討死すると、岩村は兄長可の領地に組み込まれ、その後は森氏3代、次いで田丸具忠・直昌と続き、城主は目まぐるしく交替した。 江戸時代は松平氏2代、丹羽氏5代の後、大給松平分家の松平氏7代を経て明治維新を迎えた。 |