本能寺の変

本能寺の変)
京都府中京区元本能寺南町

1582年(天正10)6月2日
織田信長×明智光秀
Mapion

--旧本能寺跡碑--
交通 京都市営地下鉄烏丸線「四条駅」から徒歩10分。
1582年(天正10)5月17日、安土城に居た織田信長の下へ、備中高松城を攻囲中であった羽柴秀吉から援軍要請が届いた。信長は直ちに自らの出陣を決断すると、安土を訪れていた徳川家康の供応役を務めていた明智光秀の任を解き、中国筋への出陣を命じた。光秀はその日の内に坂本城に帰城すると、26日丹波亀山城に入城する。一方信長も29日僅かな手兵を引き連れて上洛し、本能寺に宿泊、6月4日備中へ出陣する予定であったという。
6月2日、信長への謀叛を決した光秀は1万3千を率いて亀山城を出陣、一路山陰道を東へ向かい、丹波口から京へ入ると、信長が宿泊する本能寺を包囲し、信長は自害した。この時本能寺北にある妙覚寺に宿泊していた信長の嫡男信忠も500余の兵を連れ、二条御所に入り、明智勢を相手に戦った末に自害した。
信長を討った光秀は近江平定の為、安土城を目指して進軍するが、瀬田城主山岡景隆に瀬田橋を落とされた為、坂本城に入った。
5日瀬田橋が修築されると光秀は安土城に入城し、同時に佐和山城・長浜城を占拠すると、8日明智秀満を安土城に置き、坂本城に帰城した。
一方備中高松城を攻めていた秀吉は4日毛利方と休戦して姫路城に戻り、9日京へ向かった。
6月13日、秀吉と光秀は山崎で争い、敗れた光秀は坂本城へ敗走する途中、小栗栖付近で土民に討たれた。
旧本能寺跡碑�� Mapion
本能寺
境内に立つ本能寺戦没者合祀墓
本能寺
境内に立つ信長公廊

参考文献  「現地案内板」
                「歴史群像シリーズ 学研」
2006年5月
2009年6月