![]() 岡山県高梁市内山下 --天守閣-- |
| 別名 | 小松山城 |
| 交通 | JR伯備線「備中高梁駅」から登山口まで徒歩20分。 |
| 築城年代 | 戦国時代 |
| 築城者 | 三村氏 |
| 形式 | 山城 |
| 主な城主 | 三村元親・水谷勝宗 |
| 標高430メートルの小松山山頂に位置する。 美濃国岩村城・大和国高取城と共に日本三大山城の一つに数えられ、天守の現存する山城では日本一の高さである事で知られる。 1240年(延応2)有漢郷の地頭、秋庭三郎重信が大松山に砦を築いたのが備中松山城の起源とされる。 1331〜34年(元弘年間)秋庭氏に代わり、備後の三好氏一族である高橋九郎佐衛門宗康が入城し、この頃小松山(備中松山城)まで縄張りが拡張され、弟の大五郎を居城させている。 その後城主は高氏、上野氏、庄氏、尼子氏と変わり、1561年(永禄4)毛利元就の支援を受けた鶴首城主三村家親が尼子氏の城番吉田左京亮を討ち、備中松山城に入城した。 1572年(元亀3)毛利氏が敵対する宇喜多氏と和睦を結んだ為、三村元親は織田信長と結び、毛利氏に反旗を翻す。その後1574年(天正2)冬から翌年夏にかけて毛利・宇喜多連合軍と激しく争い、元親は自害、三村氏は滅びた。「備中兵乱」 この頃に小松山に本丸が移され、臥牛山一帯は出城・出丸が整備され、全山が一大要塞となっていた。 江戸時代には池田氏2代を経て、1642年(寛永19)水谷勝隆が入城し、3代続いた。今日見られる天守や石垣の大部分は2代勝宗の頃に築かれたとされる。 1693年(元禄6)10月、3代勝美は没し、嫡子がなかった為に断絶、領地召し上げとなった。この時水谷藩士らは幕府の措置に抵抗して籠城するが、松山城請取使に命じられた播磨国赤穂城主浅野内匠頭長矩に随行していた大石内蔵助が単身城内に入り、談合によって受け取っている。 |
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| 御根小屋(現高梁高) | 登山道にある大石内蔵助腰掛石 | 中太鼓の丸から見る下太鼓の丸 |
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| 大手門跡�� | 大手門跡�� | 内側から見る大手門跡 |
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| 大手門跡から見る二の丸方面 | 二の丸・本丸へ続く登城路 | 二の丸から本丸方面 |
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| 天守閣・平櫓 | 搦手虎口 | 二重櫓 |
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| 後曲輪・櫓跡 | 大松山城と結ぶ本丸北の橋・堀切 | 頼久寺 境内には三村氏墓所、 小堀遠州作の庭園がある |