基肄城

基肄城(きいじょう)
佐賀県三養基郡基山町大字小倉
(福岡県筑紫野市)
Mapion
--山頂に立つ城址碑--
別名 椽城・記夷城・木山城
交通 JR鹿児島本線「けやき台駅」から水門跡(南門)まで徒歩35分。
水門跡から道路を北に少し進むと基山登山道があります。
築城年代 665年(天智天皇4)
築城者 天智天皇
形式 朝鮮式山城
主な城主     
660年(斉明天皇6)百済が唐・新羅連合軍に敗れ、滅亡すると、百済遺臣らは友好国である倭国に救援を求める。倭国は百済再興の為、援軍を送るが、663年(天智天皇2)唐・新羅連合軍に白村江の戦いで敗れた。
西からの唐・新羅侵攻の脅威にさらされた倭国は防衛体制の整備を行い、海に近い那津にあった官衙を大宰府の地に移すと、664年(天智天皇3)対馬・壱岐・筑紫に沿岸防備の防人と烽を置き、また大宰府防衛として水城を築いた。
次いで665年(天智天皇4)長門城・基肄城・大野城、667年(天智天皇6)高安城・屋嶋城・金田城を築いて備えた。
基肄城がその後どのように利用され、廃城に至ったかは不明だが、「続日本紀」に698年(文武天皇2)「大宰府をして、基肄・大野・鞠智の三城を繕治する」と記載されており、少なくとも8世紀頃まで維持されていたと推測される。
戦国時代には周防国大内氏と少弐氏との抗争の際、大内氏方である陶氏が木山(基山)に布陣した記録が残り、山頂の「いものがんぎ」と呼ばれる連続堀切状の地形は中世山城に関連する遺構と考えられている。
標高404メートルの基山と坊住山を中心に約4キロの土塁線で谷を取り込む山頂式(鉢巻式)の形式になっり、土塁線上には4か所の門が設けられている。支尾根上平坦地には礎石群が残され、東尾根上には水溜跡や鐘撞跡があり、「史跡めぐりコース」として整備されている。城域中、最も大きい南谷にはそれを塞ぐ為に築かれたと考えられる水門があり、大規模な石垣が残されている。また南東麓には基肄城に関連した防御施設として丘陵間を塞ぐ関屋土塁・とうれぎ土塁があり、水城に対して小水城とも呼ばれている。
Mapion
水門跡
水門跡石垣 通水口
山頂に立つ天智天皇欽仰之碑 山頂土塁線
中央が「いものがんぎ」
大礎石群
丸尾礎石群�� 丸尾礎石群�� 東北門跡
つつみ跡 鐘撞跡 米倉礎石群

参考文献 「福岡・熊本・鹿児島の城郭 新人物往来社」
訪城回数 1
2019年11月