七尾城

七尾城(ななおじょう)
石川県七尾市古城町
Mapion

--桜馬場下石垣--
別名 松尾城
交通 JR七尾線「七尾駅」からバス「城史資料館前」下車。
大手門跡・屋敷跡等を経由し頂上まで約40〜50分です。
築城年代 1477年(文明9)以降か
築城者 畠山義統か
形式 山城
主な城主 能登畠山氏
室町幕府将軍を補佐する管領職を務めた畠山氏の有力庶流とで、1408年(応永15)能登守護に任ぜられた畠山基国次男である満慶に始まる能登畠山氏累代の居城。初代満慶・二代義忠は京に滞在する事が長かった為、1477年(文明9)京での乱が鎮まった頃、帰国した三代義統または四代義元以降に築かれたと考えられる。
1545年(天文14)七代義総没後、跡を継いだ義続の頃、家臣団による権力争いが起こり、義続やその子九代義綱には家臣団を統率するだけの力は失われつつあった。このような情勢の中、畠山七人衆(温井総貞・遊佐続光・遊佐宗円・長続連・三宅総広・平総知・伊丹総堅)の合議制による政治体制が執られた。畠山七人衆に傀儡化された義続・義綱父子は、1555年(弘治1)中心的な人物である温井総貞を暗殺し、一時権力を取り戻すが、1566年(永禄9)遊佐続光らに追放された。その跡は畠山義慶次いで義隆が継ぐが(両者は同一人物とも)、いづれも急死しており、暗殺されたとも考えられる。続いて畠山春王丸が跡を継ぐが、幼少であった為、重臣が実権を握っていた。
1576年(天正4)11月、七尾城は能登に侵攻した越後国春日山城主上杉謙信に攻められ、この時は撃退するも、翌年7月再び謙信は出陣した。この頃七尾城は城主春王丸の病死で城兵の士気も落ちており、長続連・綱連父子は連龍を近江国安土城へ送り、織田信長に援軍を要請した。しかし9月15日、上杉軍に取り囲まれた七尾城内で遊佐続光・温井景隆らが内応し、親織田派の長氏一族を討ち果たし、七尾城はその日の内に上杉方の手に落ちた。その後援軍として手取川付近まで進軍していた柴田勝家率いる織田勢は七尾城陥落の報を受け、撤退を開始するが、謙信に追撃され敗走している。
落城後、鯵坂長実が城代に置かれ、遊佐続光と共に城の復旧と能登支配を進めるが、1581年(天正9)加賀一揆を破った信長の支配下に入り、能登に入国した前田利家が小丸山城を築くと、七尾城は廃城となった。
番所跡 三の丸 二の丸・三の丸間堀切
二の丸 二の丸下・温井屋敷石垣 九尺石
遊佐屋敷跡 遊佐屋敷跡石垣 本丸下石垣
本丸 本丸に立つ城址碑 本丸西石垣
桜馬場下石垣�� 桜馬場下石垣�� 樋の水

参考文献  「織田信長合戦全録 中公新書」
              「新潟・富山・石川の城郭 新人物往来社」
訪城回数 1
2007年5月