1429〜41年(永享年間)大内氏11代盛見により築かれたとされる。豊前・筑前・筑後のほぼ中央に位置し、戦国時代を通じて争奪が繰り返され、1573〜92年(天正年間)には古処山城主秋月種実の支城の一つとなり、1585年(天正13)子である種長に古処山城を譲った後は種実の居城となる。 1587年(天正15)豊臣秀吉による九州征伐の際、岩石城が「見せしめの場」として豊臣軍本隊に最初に攻められ、僅か1日で落城すると、種実は益富城を破却して古処山城に退いた。この地に着陣した秀吉は村人に命じて一斉にかがり火を焚かせ、また戸板や障子を益富城に運ばせ、一夜で仮城を築いた。翌日古処山城からその光景を見た種実・種長父子は降伏し、戦後日向国高鍋に移された。 1600年(慶長5)関ヶ原合戦で東軍に属した豊前中津城主黒田長政は、筑前52万石を与えられて入部すると、名島城に入城した。しかし城下町が狭い事から、翌6年から7年の歳月をかけて福岡城を築いた。同時に国境防備の為、筑前六端城(若松城・黒崎城・鷹取山城・益富城・松尾城・麻底良城)を築き、益富城もその一つとして改修された。益富城には後藤又兵衛基次が1万6千石で入城するが、後に長政と不和になり出奔すると、後任として母里友信が鷹取山城から入り城主となる。 1615年(元和1)一国一城令により廃城となった。 標高187mの城山に位置し、南北に細長い山頂に本丸・二の丸が並び、北に馬屋がある。水の手曲輪を挟み東側には別曲輪が複数設けられており、城域は非常に広大で秋月氏時代の畝状竪堀群や後藤・母里氏時代の枡形虎口や石垣が良く残されている。北麓には母里友信菩提寺である麟翁寺が建ち、益富城搦手門が山門として移築されている。 |