観音寺城

観音寺城(かんのんじじょう)
滋賀県近江八幡市安土町石寺
Mapion

--本丸石垣--
別名 佐々木城
交通 JR東海道本線「安土駅」から登山口の桑実寺まで徒歩30分。
築城年代 1467〜87年(応仁・文明年間)
築城者 六角氏
形式 山城
主な城主 六角高頼・六角定頼・六角義賢
近江守護佐々木六角氏居城。鎌倉幕府成立後、近江国は佐々木氏が守護職に任ぜられ、1221年(承久3)承久の乱後、近江守護佐々木信綱の時、三男泰綱が本家を継いで京屋敷の場所に因み六角氏を称した事に始まる。
築城年代は不明だが、「太平記」に1335年(建武2)足利尊氏に従った佐々木氏頼が、奥州より攻め上った北畠顕家軍を防ぐ為、観音寺の城郭に立て籠もったとある。
1467年(応仁1)応仁の乱が勃発すると、六角高頼(行高)は対立する京極持清が東軍細川方に属した為、西軍山名方として戦った。この時六角氏は同族同士で東西に分かれて争い、高頼は劣勢であったが、1471年(文明3)箕作城で六角政堯を討ち取ると、勢力を拡大した。この勢力を背景にして寺社や公家領の横領を繰り返した為、室町幕府の反発を買い、1487年(長享1)9月と1491年(延徳3)8月に二度の征討を受けるが、高頼は観音寺城を逃れ、甲賀の山中に出奔した為、幕府の征討はいずれも失敗に終わっている。
1502年(文亀2)10月、重臣である伊庭城主伊庭貞隆と対立すると、高頼は蒲生貞秀を頼り、音羽城に逃れた。翌年和睦が成立するが、その後再び争うようになる。1520年(永正17)水茎岡山城を攻め、貞隆を攻略するが、間も無く自身も死去した。観音寺城の整備がいつごろ行われたか詳細は不明だが、争乱が続く中、高頼の時から徐々に改修されていったものと考えられる。
高頼の跡を継いだ定頼は足利義晴を後盾とし、国人領主・商人の支持を権力基盤として守護大名から戦国大名へと転進した。
1560年(永禄3)六角義賢(承禎)は野良田合戦で浅井長政に敗れ、1563年(永禄6)義賢の子義治が重臣であった後藤賢豊を謀殺した事がきっかけで内紛が起きると(観音寺騒動)、六角氏は徐々に衰退していく。1568年(永禄11)9月、足利義昭を擁し上洛を目指す織田信長に敗れると、義賢・義治父子は観音寺城を捨て甲賀に敗走した。
閼伽坂見付(観音正寺参道) 大土塁堀切 沢田丸
沢田丸下石垣 本丸へ続く石段 排水溝跡
本丸 本丸土塁石垣�� 本丸土塁石垣��
本丸喰違い虎口 水場遺構 太夫井戸
繖山山頂 繖山から安土城・西の湖方面 城址遠望

参考文献 「現地案内板」
                        「京都・滋賀・福井の城郭 新人物往来社」
訪城回数 1
2006年11月