都於郡城

都於郡城(とのこおりじょう)
宮崎県西都市鹿野田
Mapion

--本丸・二の丸間堀切--
別名 浮舟城
交通 JR日豊本線「佐土原駅」下車。
「佐土原駅」バス停からバス「御船通り」下車。乗り継ぎ⇒
「御船通り」バス停からバス「坂ノ上」下車。バス停から徒歩5分。
バスの本数が少なく、乗り継ぎが難しい為、宮崎交通HPで時刻表を確認して
下さい。佐土原駅始発バスに乗ればスムーズです。2011年9月現在
また未確認ですが他にも便利なバス経路があるかもしれません。
築城年代 1337年(建武4)
築城者 伊東祐持
形式 山城
主な城主 伊東義賢
1190年(建久1)工藤左衛門尉祐経は、鎌倉幕府から日向国地頭職に任ぜられるが、1193年(建久4)富士の裾野で曽我兄弟に討たれる。しかしその遺領は嫡男祐時に受け継がれ、その後も代々伊豆国に住し、日向には一族から代官を置いて治めていた。
1335年(建武2)祐時から6代祐持の頃、足利尊氏に従い戦功を認められ、都於郡300町を賜ると、一族を率いてこの地に下向して来た。そして2代祐重の時、都於郡城は山城として更に改築されたとされる。
以来伊東氏はこの都於郡城を本城として日向一円を掌握していく事となるが、しばしば火災に見舞われ、特に1504年(永正1)には酷く延焼し、伊東氏は佐土原城や宮崎城に居城する事が多かったという。特に伊東氏最盛期を築き上げた10代義祐は、初めから佐土原城や宮崎城に居城し、都於郡城には嫡男義益、義益の死後はその子義賢を城主として置いていた。
1572年(元亀3)木崎原合戦で島津氏に大敗した伊東氏は衰退の一途を辿り、1577年(天正5)薩摩・大隈を平定した島津氏が日向に侵攻すると、義祐はこれを防ぎきれず、孫義賢・祐兵らを伴い僅かな人数で、義賢の母が大友宗麟の姪である関係を頼って豊後に落ち延びた。
都於郡城には島津家臣鎌田政親が入城するが、1587年(天正15)豊臣秀吉による九州征伐後、都於郡は佐土原藩領となり、1615年(元和1)一国一城令に伴い廃城となった。
本丸・奥の城間空堀 奥の城
大奥として奥方や侍女をはじめとする
家族の住居であった。
奥の城土塁
本丸虎口 本丸に立つ伊東マンショ像
伊東義祐の孫として生まれ、1577年
義祐と共に豊後へ逃れ、後天正遣欧
少年使節団の一人となる
本丸��
本丸�� 本丸西虎口 二の丸
二の丸土塁 西の城・三の丸間堀切 西の城
三の丸 三の丸から西方 二の丸・三の丸間堀切

参考文献 「現地案内板」
                        「大分・宮崎・愛媛の城郭 新人物往来社」
訪城回数 1
2011年9月