三山時代、南山王歴代の居城とされるが確証は無く、他に島尻郡大里村の大里城という説もあり、正統や分家等、複雑な内部事情や変遷があったようである。 南山は、北山・中山に比べると微力であったが、明国と盛んに交易し、朝貢回数は22回を数える。 1429年南山王他魯毎(たろまい)の頃、中山の尚巴志(しょうはし)に攻められ、南山は滅亡、琉球は統一された。この時他魯毎は南山の水源であった嘉手志川(かでしがー)を尚巴志の金屏風と交換した為、南山の人々の信望を失い、滅亡に繋がったという逸話が残されている。 現在城址は高嶺小学校・南山神社境内となっている。西側は小学校校舎やグラウンド造成の為、遺構は消滅し、立ち入りも出来ないが、東側南山神社境内に拝所や井戸、石垣が残されている。また糸満にある山巓毛(さんてぃんもう)は他魯毎が自害した所ともいわれ、南側に墓所がある。 |