1198年(建久9)豊前国守護で城井谷城主宇都宮信房に下毛郡野仲郷を分知された弟重房が野仲氏を称し、この長岩城を築いたとされ、以後野仲氏22代390年間の居城となり、本家宇都宮氏と共に一大勢力を保持した。 その後野仲氏は大内氏次いで毛利氏に従い活躍した。1556年(弘治2)野仲重兼(鎮兼)の時、長岩城は大友義鎮(宗麟)に攻められ降伏するが、1578年(天正6)大友氏が高城川合戦で島津氏に敗れ勢力を落とすと叛旗を翻し、下毛郡の大半を制圧した。 1587年(天正15)豊臣秀吉による九州征伐後、豊前国6郷を与えられた黒田孝高(如水)が馬ヶ岳城に入城すると、重兼は城井谷城主城井(宇都宮)鎮房と共に反発した。その為翌年4月4日、重兼以下1千5百が籠もる長岩城は後藤又兵衛を先陣とする黒田長政軍3千5百に攻められ、内応者が出た事もあり、僅か3日で落城、野仲一族は滅亡し、その後長岩城も廃城になった。 標高600メートルの扇山の本城、沢が流れる渓谷を挟み古城ヶ鼻と呼ばれる出城から成り、渓谷部は城戸が設けられ、石垣が組まれている。南は人が一人やっと通れる程の細岩尾根になり、危険な箇所も多いが、長岩城の最も特徴的な遺構である石積櫓が築かれ、銃眼といわれる小窓が付いている。また同じ細岩尾根域には弓形砲座も残されている。城内側からは滑落の危険から立入禁止になっているが、中村バス停付近にある板追谷登山口から登ると、途中に弓形砲座専用の入口が整備されている。 |