但馬国養父郡朝倉を本貫地としていた朝倉氏は、1336年(延元1)広景・正景の時、越前国守護斯波高経に
従い越前国に入ると、黒丸館を構え、勢力を伸ばした。やがて朝倉氏は主家斯波氏を追うと、1471年(文明3)朝倉氏7代孝景(敏景・教景)の時、この一乗谷に本拠を移したとされる(諸説有り)。以後一乗谷は氏景・貞景・孝景・義景5代約100年にわたり、戦国大名朝倉氏本拠として繁栄した。 1566年(永禄9)京を追われた足利義昭は、織田信長に迎えられるまで、この地に一時滞在し、義景の庇護を受けている。 1573年(天正1)7月、義景は近江国小谷城主浅井氏援軍として自ら出陣するが、戦意は揚がらず、8月退陣を開始、その途中刀根坂で信長に追撃され、敗北を喫した。離反者が続出する中、義景は一乗谷を放棄し、六坊賢松寺に退くが、一族であった朝倉景鏡に背かれ、自刃した。一乗谷は平泉寺衆徒によって谷中が焼き尽くされ、3日3晩燃え続けたといい、朝倉氏滅亡と共に灰燼と化した。 朝倉氏滅亡後、一乗谷には越前守護代に任ぜられた朝倉氏旧臣である桂田長俊(前波吉継)が入るが、同じく朝倉氏旧臣で龍門寺城に拠る富田長繁が一向一揆と結び、一乗谷に攻め寄せ、長俊は討死した。 1575年(天正3)一向一揆を平定した後、織田信長は柴田勝家に越前49万石を与えた。勝家は北陸支配の拠点として北ノ庄城を築いた為、一乗谷は荒廃した。 |